「 イーハトーブの保育 」のお話
園長: すぎもと かずひさ
『保育の基本はこどもたちの命を守ることですから、みなさんにもできますよ・・・』
未曾有の大地震の揺れが続く中、30名の乳幼児を抱え、おんぶし、手を引き、斜度30度の急斜面を登り、さらに最初に避難した場所から高台の避難場所まで登って、園児の命を守りきった彼女の言葉はこどもたちへの深い愛情と保育に対する使命感、そして職を等しくするわたしたちへの思いやりに満ちていた。
三陸地方で暮らす彼女たちは、地震即ち津波ということで平時からさまざまな備えをしていた。「一刻の猶予もなし」という生死を分けた判断から、大地震の揺れが続く中にも関わらず避難をはじめられたのは園舎中の窓ガラスに飛散防止フィルムが張り巡らしてあったからであった。これによって、こどもたちはその柔らかな足を傷つけることなく行動することができたのである。直後、猛烈な巨大津波が押し寄せてくる。
寒さをしのぐ着替えと紙オムツを抱えて一目散に避難するこどもたちと保育者の列。最初に避難した場所の近くには早くも黒い波が押し寄せてくるのが見える。さらに山の上を目指す。不思議なことに泣く子はひとりとしていなかったという。
全員無事に避難する。それでも山にはやがて牡丹雪が降り、寒さが襲う。職員は自分の着衣や靴下をこどもたちに着せ、穿かせて、寒さをしのいだ。ライフラインは途絶え、最終のこどもの迎えは二日後の夜だったという。その間、避難所で業務を全うした彼女たち。自分たちの家人の安否は人づてに聞いたとのことであった。
『悲嘆にくれる方達がいて、誰かがその思いを受け止めなくてはいけないと思った。逃げちゃいけないと思った・・・。』再起に向かう言葉はどこまでも深い。
仲間と再開し、抱き合い、泣き合い、語り合い、気づくと深夜に及ぶ職員会議。それも今は憩いの場になっていると笑う。避難の時からひとりとして泣かなかったこどもたちが、ようやくきつい言葉を言ったり、わがままを表現したりして保育士たちを困らすようになってきたと喜ぶ。元の園に戻りたいと昔のイメージのままに楽しいあそびの計画を立てるこどもたちの要望を一刻も早く実現しようと未来を描く。運動会を行えばだれかれともなく、親御さんたちがお手伝いをかって出る。わがことのように県内外の遠くから訪れて案じてくれる保育の仲間がいる。
三陸地方の保育の質はこんなにも高い。いのちとは『息の道』である。保育の専門性はこどもへの愛情の中に息づいている。宮沢賢治の故郷イーハトーブの息遣いが聞こえる保育を広めゆきたい一心である。
※宮沢賢治は作品中の架空の理想郷に、岩手県をモチーフとしてイーハトーブと名付けました。彼は世界の平和なくして、個人の平和はないと考えていました。その願いがイーハトーブに込められています。被災地では継続的な支援が必要です。わたしたちがそれぞれの心にいつまでも留めておくことです。