『 噴水の夏 』のお話
理事長 すぎもと かずひさ
子どもは手洗い場が大好きである。水栓はもちろん手動。作動したりしなかったり気まぐれな自動センサーは、ときに子どもの意思とちぐはぐな作動によって子どもの直観的活動に水を差す。
「水を出したい⇒水栓をひねる⇒水が出る」という自らの意思と行為と現象と、ひんやり心地いい水の感触とそれらの一つ一つを感受する感覚が相まって総合的な「快」の体験として取り込まれてゆくからたまらない。センサーが勝手に反応して、あるいは、反応する位置を確かめ、微妙なタイムラグを窺いながら「水が出てしまう」体験との違いは明々白々である。
乳児室では、0歳さんから2歳さんまで年齢の別なく子どもたちは蛇口が気になってしょうがない。その独特のフォルムもさることながら、保育者がバケツに汲んだりタオルを洗ったりする様子をそばにいて毎日見せられるのだから、好奇心はくすぐられっ放し、募る欲求は抑えられるはずもない。そんなことなので、気づけば水浸しということが度々である。
ある日のこと、いつものように保育環境の様子を見ようと園舎をめぐっていると、紐でがんじがらめになった水栓に出くわした。「他のクラスもかしら・・・」、と慌てて見回ってみるとそうでもない。また、年齢差の高低によるものでもないのであった。つまり、「子どもの水いたずら」に対する保育者の耐性、あるいは子ども理解の深度による関わりの違いがその後の対応の分岐点となって保育環境に現れたのであった。
子どもはやってみてものごとを理解してゆく。「いたずらや散らかりなどの混沌とした状況をも受け容れてゆく先に真の子ども理解の途がある」ことを知る保育者は、「水浸し」を笑顔で受け容れる。俄然、子どもはのびのびとなる。自己を発揮し、体験の幅を広げ、学びのチャンスをどんどん増やしてゆく。さらに、ルールや約束など大人から求められる社会性が絞られているので「問題行動」や「気になる行動」が出現しにくい。
3歳の男の子。じっと蛇口を眺めている。膨らんでは垂れそうになる滴の様子が面白いのだ。「さわっちゃうよ。ああ、ひねっちゃうよ。」今日も先っちょに垂れる滴が素敵過ぎ。まさに佳境である。ところが、突然、遠慮のない指がやってきた。滴をつぶす。
「うわぁ~!!」無念の叫びが聞こえてくる。呆気にとられた彼。喪失感を取り返すかのように蛇口をひねった。衝動が水勢になる。蛇口と無遠慮な友の指の間から噴水の夏。