理事長 すぎもと かずひさ
「生かされている根拠としての主体」が全身でこの世界を感じ、「生きている根拠としての主体」としてはじめてこの地球に降り立った0歳児さん。足指や足裏、かかと、それにつながる骨や筋肉など、体幹を見事に駆使しながら、「ゆら~り、おっとっと」と寄ってくる。この関係がもう有り難い。この全身に漲るたどたどしさにどれほどの潜在力が秘められていることだろう。ほ~ら、歩くだけでもままならないAちゃんが右手の甲に口唇を滑らせ、「レロバボバブブ・・・」などと、ネイティブ地球人のはじまりの歌といわんばかりの音を鳴らし始めたものだからたまらない。
瞬時にとなりにいたBちゃんが同じように「手の甲ハーモニカ?」を鳴らしはじめた。教えてもらわなくたってこの世に生を受けて1年もの間、自分の手と口唇、舌あたりを使っては、吸って、舐めて、食べてはいろんな音を出し、親しんできた身体と全身の感覚はいとも自然にネイティブ地球人の音楽を重ね奏でる。Aちゃんが繰り出す音色と仕草が瞬時にしてBちゃんとひびきあい、二人の間をなおも深い歓びに彩っていくというアクチュアルな体験に「そうそうこの感じ~」と保育者もご満悦、感性脳がビヨーンピョンしだして人目もはばからずいっしょに鳴らしてみたくなる。
レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」、三宮真由子さんの「せんす・おぶ・なんだぁ⁉」につづく「せんす・おぶ・やんなぁ・おまえさん」である。子どもたちの遊びは、いつも喚起的で、だからすごい。「やんなぁ」のなかには、「ワンダー」しながら拾い集めてきた自然物も、「なんだぁ」しながら探究してきた知的感動も、ブリコラージュ(組み合わ)されて、昨日のいいこと、今日の興奮、AちゃんからZちゃんまで、みんなの多様な「やんなぁ」がまざりあっている。この喜びの沸々があるから「夢」や「希望」が、俄然、沸きだしちゃうんだろう。
こんなふうに一つ一つの環境と一人一人の子どもが共の主体であるからこそ意味と価値がどんどん発酵していく予感に充ちた乳幼児期の日々を尊いと思う。ヴァーチャルな世界と共存する現代において感性がひびきあい、「みんなのやんなぁ」がまざりあう体験は一層の価値をもつ。「遊び」は子どもたちの手仕事、手持ちの力によるアーティスティックでサイエンスティックな体験でもある。アートが生み出されるほどに豊かだったという縄文時代。豊かな自然環境・時間・場・人の豊かさが土偶をつくった。「せんす・おぶ・やんなぁ・おまえさん」と称え合う彼の人たちの感性がみえる。