『 みんなの芽と保育の交響詩 』のお話
理事長 すぎもと かずひさ
「あそびの芽」が覗いている。何かありそうな、誰か居そうな予感は、霊(もの)たちの、友だちのお陰である。この世に生を授かってわずか数カ月、多くても数年のご縁が遊びの根多(ネタ)となってそこらじゅうで沸きだしている。根多は読んで字のごとく多いほど逞しく豊かに伸びては絡みあいさまざまなセンス、学びを生み出していく。根多元は一人一人の子どもたちだ。Aちゃんの目の高さ、Bちゃんが手を伸ばしそうなところ、Cちゃんのハイハイの行方や歩行が間もないDちゃんがつかまりそうな穴や凸凹など、子どもが身体する喜び、心身響一に感覚する充溢の表情・すがたへの共感・共鳴が明日の保育の予感となってとまらない、たまらない。
布が重さに垂れる。暖簾とはよく言ったもので簾の向こうに気配が動く。暖かな友だちの、保育者の気配だ。布は軽く柔らかで「わたし」が触るように揺れては視界をも楽しませてくれる。隙間が現れる。向こうが覗く。腕をあげると視界が揺れる。乳児さんにさえ自在の心をくすぐってくれる。こちらとあちら、内と外、あなたとわたしの感覚って面白い。越境の喜び、自由の冒険ってこんなところからはじまるんだ。「あなたとわたし」を遊んだこの布、暖簾は一緒に遊んだAちゃんの愉しい思い出とともに未来をもひらいていく。こんなふうに子どもは霊(もの)との出会いを感受し、遊びを深めるたびに新たな生命を宿らせながら親密な関係を結んでいく。「むすび芽」である。
外に出る。土だ、水だ、虫だ、花だ、いろんな霊(もの)たちがやってくる。タンポポの花全体が醸す佇まいに惹き寄せられていってみると、花の、花びらの、葉の、茎の詳細へ、溶けてしまいそうになる。近くの1歳児さんに目をうつす。折れた木の枝のめくれた樹皮を親指と人差し指でひたすら撚るように動かしながら自らの行為と木枝の樹皮と繊維が繰り出す新たな現象に眼を瞠り、没入している。現象しゆくこの面白さが、好奇心・探求心の源泉といっていい。泥水には、その濃度を出現する土砂と粒子の大きさ、粘りと物質の関係、まざり溶けゆく水流と砂模様、水の透明度と土砂の沈殿、太陽の向きと反射具合い、などなど、子どもごころを掴んで離さないきらめきとときめきの根多がいっぱいである。
遊びは子どもが環境に惚れていく「霊惚け(ものぼけ)」のプロセスである。子どもが霊(もの)たちと魂を震わせながら交歓し、発酵しゆく感受性、空間と時間の感覚、乳幼児期の生のリアリティ、生の意欲に満ちた体験に「みんなの芽」がどこまでも伸びてゆく。「場の主体性」が生き生きと鳴りゆく保育の交響詩である。