『世界の希望をまつる、保育の息ゆき』 のお話

世界の希望をまつる、保育の息ゆき』 のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

「できた/できない」で子どもを見るほど、こころは“いまここ”のよろこびから遠ざかります。竹馬に乗れない日、自転車で転んだ日。それでも朝になればもう一度だけサドルをまたぐ——その時間には、結果では測れない、健気な意欲とためらい、揺れながら続く態度の物語があります。私たちは、そのサドルをまたぐ姿や半歩の轍に共鳴=共命し、そっと寄り添い、祝福する大人でありたいのです。

保育・教育は、子どもを「作る」ことではなく、子どもと世界が互いに作用し合って出来事が立ち上がる「発酵」の営みです。能動/受動を越えるこの“中動態”の理解に立てば、評価も「到達度の物差し」から「過程の可視化」へと転じることでしょう。転ばぬ工夫、待つ勇気、友だちの成功に触れて芽生えるざわめき——それらはすべて遊びや学びの成熟を告げる酵母のはたらきです。大人が結果を急がず、子ども自身のリズムに同調するとき、こころの奥で「ひびく・まざる・わきだす」瞬間が生まれてきます。

日本は、子どもの自死が多いという痛ましい現実を抱えています。だからこそ、私たちは「達成」を迫る前に、子どもが“生きているいま”を受けとめ、愛でる文化へ舵を切りたいのです。できないまま向き合っている時間を価値として語り合い、半歩の元気や勇気を見つけたら共に喜び、明日への一呼吸を一緒に待ち、ともに深呼吸する。その身近な誰かの存在が、子どもの世界をやさしく支え、大人の心をもあたためてくれることでしょう。

みんなのきの園は、子ども・大人・環境・時間の「き(気・機・基)」がまざり合い、新しい意味が自然に立ち上がる発酵の醸し場です。園の歌に出てくる「こどもとおとなのこころのひろば」の歌詞は、私たち身近な大人たちの一人一人=誰もが、それぞれの“急がない勇気”や“待つ余白”を持ち寄るときに現れる結果を超えた深い歓びを歌います。

今年の5月末に帰幽された鎌田東二氏は、祭りの語源について、次のように語っておられます(https://www.youtube.com/watch?v=haCpmL3r8B4)。産霊の神の顕現を「待つ」、その神々を「奉る」、自然やいのちの律に従い、調和へ身をゆだね「まつろう」、さらにあなたとわたし、子どもと世界、個と共同体の「間が“つり合う”」とき、いのちは大きな調和へと向かい、私たちという生命のグレートハーモニーから、私が生まれてくる世界が見えてくると。

「半歩の轍」は、子どものかけがえのない、生命、心身、現象、表現、創造の賜物であり、神の顕現でもあります。子どもの未来と私たちの世界の希望を「まつる」保育の息ゆきです。

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