「こころのハーモニー」のお話
理事長 すぎもと かずひさ
僕は生まれて10ヶ月。ある日泣いていると、「Aちゃんどうしたの~」、といつもの声がやってきた。心地よいトーン。語り掛け、歌い掛けなどというらしい。同時にいつもの匂いが立ち込めてくる。「エーンエーンしてたなぁ」と覗く顔。待ってたよぉ、と僕。しゃべれないから泣くしかない。「うんうん」ってアヒルさんみたいな口が可笑しい。「そうね~」って僕のこと何でも知っているの、お見通しですか。見つめる瞳が優しい。ふんわり包まれるように手を握られた瞬間、甘えたい気持ちが一気に流れ出た。「ウェーン、ウェーン」こらえきれずに僕は身体をバタバタ暴れん坊に大変身。すると抱っこでトントンって嬉しかった。さっきまでざわざわしていた僕の心は落ち着いて、いつの間にか眠ってしまったんだ。
私は2歳、「自分で~」は最近の口癖。「えっへん!」いろんなことができるのよ。先生が机や椅子を並べ始めた。そして、おしぼりにエプロンときたら「お昼ごはーん、ハイ、大正解~」。早速、「お手伝い開始~」、椅子を運んで「よいしょよいしょ」。「ありがとう」って先生に言われたらますます張り切る私。モチベーションが上がるってこういうことなんだと思う。その時、「ガッシャーン!!」青天の霹靂。転んだ。食器にぶつかった、これが本当の「ショッキング~」。痛さより悲しかった、おかずが散らかりみんながガヤガヤ集まってきた。「Bちゃん、大丈夫?痛いところない?」先生が心配そうに語り掛けてくれた。私はただただ泣いた。しばらくして、先生が耳元で囁いた。「Bちゃん怪我がなくてよかったね。Bちゃん偉かったね。お手伝いがんばってたものね。Bちゃんが泣いたら先生も悲しかった」。私は先生が大好きになった。
子ども=人間の理解には、瞬間的理解と長期的視座からの理解がある。瞬間的に子どもの心情を受け止め、共感的に理解することは大切ではあるが、それを支えるのはいつもどんな時でも自分の生涯をかけて子どもを理解しようとする信念であり、態度である。一時的にボタンの掛け違いがあったとしても長期的視座からの理解に努めていると、やがてその態度から思いが通じ合うこともある。
子どもを愛する人は、子どものことをよく知る人である。よく知る人は、共に歩く人、同行性である。共に歩くからこそ見える景色がある、分かち合う世界がある。泣きたいときほど味方になる。頑張っているときほど響き合う。こころのハーモニー。