「 ドキドキの木 」のおはなし
園長: すぎもと かずひさ
正月早々、笠取にあそびに出かけた年長児が見たこともない不思議な物体を発見してきた。しかも、そばには「これは不思議の種です。水をあげても育ちません。肥料をやっても育ちません。光にあてても育ちません。どうやれば育つかみんなで考えて立派に大きく育ててください。」という内容の怪文書が添えられていた。こどもたちは園に持ち帰りさっそく種をまいた。なかま同士で話し合い、声をかけたり、ハンドパワーを送ったり、祈りを捧げたり、風を送ったり、前で得意技を披露したりしながら成長を見守った。 ところが、(保育士の作り物の種なので)なかなか芽が出ない。数日後、植えた種を掘り出すことにした。すると、またまた怪文書。しかも、ご丁寧なことにちぎってある。こどもたちは、ちぎられた一つ一つの文字を並べ替え、ようやくキーワードを発見した。隠された言葉は「ど・き・ど・き・の・た・ね」であった。こうして、笠取で発見された不思議の種は、ドキドキワクワクするお話の種となって芽を吹いた。「どうしたら大きく育つかな?」「こんなふうに大きくなったらいいのにな!等々、こどもたちならではの知恵や発想が衣装や台詞、身体表現の一つ一つに昇華されていく。制作活動も音楽も無機質で味気のない授業のように、その活動のみが単独であるのではなく、保育物語に欠かすことのできない一つのプロセスとして必然的に存在する。日常生活そのものが物語性に溢れていると、創造的で面白い。あそびの協同者たる保育士の腕の見せ所、汗のかきどころは、計画的な見通しを持ちながらもこどもの思いつきやつぶやきを上手くあそびに生かし、あそび心に満ちた即興的応答をするところにある。また、こども一人一人の個性を真に生かそうとするとき、さまざまに生まれ、さまざまに息づいているこどもとその背景を丸ごと愛し、受容する心がなければ始まらない。保育とは愛の営みであり、その証として保育内容を吟味する。 このようにして「不思議の種からドキドキの木の物語」は展開していった。ゆりぐみ年長児のこども集団が大木として育ち、こどもたちの一人一人がその果実に育つというストーリーには、語りつくせぬこどもたちのドラマと保育者の願いが込められている。