『 無常・自ずから・光 ― 発酵の保育の生命哲学 』 のお話
理事長 すぎもと かずひさ
禅僧は境内を掃くとき、一枚の木の葉を残すと言います。すべてを整えきるのではなく、場に余白を残す。その葉は、風に揺れ、日ごとに姿を変え、やがて土に帰ります。それは「諸行無常」の教えを、掃除という日常の所作に織り込んだ姿です。
保育の場にも、同じような瞬間があります。絵の具を片付けきらずに置いたコップ、園庭の片隅に残された泥団子、雨のあとの水たまり。そうした「残り」が、次の日の遊びを呼び寄せ、子どもたちのまなざしをもう一度集めます。
子どもの遊びは、形を変え続ける生き物のようです。砂場の水路は、夕方には消え、翌朝には新しい流れが刻まれる。花びらのごちそうは、数時間で色を褪せ、風に運ばれていく。泥の家は、雨粒に打たれ、姿を失っていく。けれど、その変化こそが美しい。遊びは完成を目指さず、移ろいの中で輝く。その刹那を愛でる感覚は、無常の感動そのものです。無常の美が保育に息づいています。
「自由」とは、何ものにも縛られないことではありません。東洋の自由は、自ずからに由る──つまり、内から湧き出してくる必然に従うことです。子どもがある日突然、水たまりに夢中になる。なぜその日、その時間、その水たまりなのかは説明できません。けれど、そこに立ち尽くす背中には、確かな必然があります。保育者の役割は、その必然を押しつぶさないこと。安全と安心の土台になって、その湧き出しを守ることです。
古来、日本人は森羅万象に神を見ました。石も、風も、雲も、虫も──それぞれに意志や魂が宿ると感じたのです。保育の現場でも、それは生きています。園庭の石ころを「赤ちゃん」と呼び、布でくるむ子。飛んできた落ち葉を「手紙」として友だちに渡す子。雨上がりに現れたミミズを「道案内」と呼んで追いかける子。八百万の神々は、毎日、子どもたちの遊びに登場します。その顕現を見逃さないことは、保育者の喜びでもあります。
「面白い」という言葉の語源は、面(おも)に光(しろ)。顔に光を浴びたときの喜びを表しています。面白さとは、刺激の強さではなく、ふいに光を受け取る瞬間のことです。園庭の隅で見つけた一輪の花、水たまりに映る夕焼け、友だちの笑顔に重なる木漏れ日──それらは、子どもの面にも、保育者の面にも光を当てます。
無常=変化の中にこそ価値を見出すまなざし。自ずから=湧き出す生命の必然に従う感覚。光=顕現と感動の瞬間を味わう心。この三つがそろった教育・保育は、人間中心主義を超えて、生命全体のレジリエンスを支える文化となります。それは、子どもと大人、環境と生命が互いに発酵しあう世界観です。整え尽くさず、木の葉一枚を残すように、余白を残す。無常を抱き、自ずからを待ち、光を共に浴びる。その感覚が、日々の保育を永遠の物語にしていくことでしょう。