宇治福祉園について

「天の時間と子の時間」のお話

2024.5.31

「天の時間と子の時間」のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 

雨が天から降ってくる、天なのだ。天は空?ポタッ、しずくが頭に手に足、身体中にポタッ、ジュワッとやってくる。見上げる子ども。手をかざす、広げていく、両手をあげる。子どもリズムが全身を伝い足元でタンタン、ステップが始まったかと思えば、もうそれぞれのリズムで走り回っている。水を得た魚ならぬ、水を得た子どもである。《さあ》、雨とダンスの始まりだ。喜びの前兆の《さあ》に子どもの気がいよいよ舞って場の空気と混ざり合い、無限の大気に、天に広がっていく。

天からの授かりものである雨。天が与えてくれた「時間」がある。「空間」の大地に大いなる宇宙の時間、自然時間が変化をもたらしていく。雨風光のそれらのように季節や天気、昼夜を与えてくれる。雨との響き合いを「こころから」愉しむ子どもたち。「こころから」という表現には、身体を超えた精神のあふれ出る情感が含まれている。天と子の境界のない「まるごとの生」の体験である。

一方、「個=子」としての時間がある。「子」は変化をもたらす。好奇心がそうだ。

「わたし」は水たまりに惹き寄せられて、立ち上り、その方へ近寄って行った。

「わたし」はもっとちかづきたくなって水たまりの前でしゃがんじゃった。水面がとってもキラキラきれい。しかもユラユラしていて「わたし」は思わず水面をパチャパチャやっちゃった。そうしたら光がピチャンピチャンにキラキラになって、気がつくと「わたし」は水浸しになっちゃってたん。

「子」が存在するがゆえの時間のかけがえのなさはいうまでもなく、「われ思うゆえにわれあり」が明かす生きていく実感、充溢感に満ちた、一人一人の子ども=人間の主体的時間であり、生きる喜び、生きがいに通じる時間である。

「天の時間」と「子の時間」双方の大切さについては、上の単純化したエピソードでもわかるように「キラキラ」や「ユラユラ」といった「水」や「光(影)」の存在が欠かせない。ゆえに天の変化、自然の変化をどのように味わい、かかわり合い、混ざり合っていくかについて場面ごとにあれこれ思ってしまう。水たまりは晴れの日に雨の記憶を蘇らせる喜びの鏡にもなるから。

「雨降ってきたで~、お部屋入ろう」、保育者の声が遠くかすかに聞こえている。ところで踊る子どもの耳に届かない。届かないので響かない。

「さあ、濡れたらたいへん、たいへ~ん」、べつの保育者の声がする。そうなのか?たいへんなのか?なにが?だれが?なぜ?自問自答を繰り返す保育の日々に幸あれ。