宇治福祉園について

『運動会を体験して』のお話

2022.10.31

『運動会を体験して』のお話

やまもと いっせい(プロフィールは後述)

 

 宇治福祉園の運動会を見学させていただきました。運動会で過ごした時間は、とても居心地がよく、子どもたちの頑張りに心が動かされる、感動的なものでした。私にとって普段関わることのない子どもたちですが、ひとりひとりの個性や性格が見えてくるような、子どもたちが主役の運動会だったように思います。

実は、私は運動会がそれほど得意ではありません。保育園に通っていたころは運動会の良い思い出が残っているのですが、小学校に入ってからはあまり好きになれずに、直前にお腹が痛くなっていました。それでも、宇治福祉園の運動会は、心から楽しそうで、自分もやってみたいと思うような運動会だったように思います。

一般的に、運動会というと、全員が一律に同じ種目に取り組み、勝敗を競うというイメージがあります。逆に言えば、「全員を一律の状況で競わせる」ことさえすれば運動会が簡単に成立するわけですが、今思えば、これが私が運動会が嫌いになった理由かもしれません。私は、それほど運動が苦手だったわけではないのですが、この「用意されたレールの上で競わされる」強制的な空気が苦手だったのだと思います。

宇治福祉園の運動会に、私が苦手な空気はまったくありませんでした。子どもたちはひとりひとりが自分なりの意欲や見通しをもって運動会を楽しんでいるように見え、その結果として、感動的な時間が共有されていたように思います。今回の運動会も、「全員」で取り組むイベントである点は同じです。「プログラム」はありますし、「競争」の要素も入っています。しかし、そこにあったのは“強制”ではなく“共生”の空気感でした。「みんなで同じことをする」のが、強制になることもあれば、共生になることもあるのはなぜなのでしょうか。

 

「共通の〇〇を、ひとりひとりの仕方で」

私がこれまで、宇治福祉園の保育の様子を見させていただいていて感じているのは、「共通のものcommon」(注①)の作り方に、とても包容力があるということです。たとえば、普段の“保育環境”も、子どもたちがしたい遊びが見つかるようにさまざまな工夫が施され、ひとりひとり異なる欲求や個性を温かく受け止めるようにつくられています。「共通の保育環境を、ひとりひとりが遊んでいる」のです。もしかしたら今回の運動会も、このような包容力のある仕方で共通化されているから、共生的な空気が生まれているのではないかと思いました。

 

「共通のテーマを、ひとりひとりの遊び方で」

宇治福祉園の運動会には毎回魅力的なテーマがあります。昨年の「あいだねぷしゅけはんさーいこー」にも驚きましたが、今年の「ぴゅしすとなんじゃのかくれんぼう」というテーマもとても強烈なインパクトがあります。なにやらよくわからない、不思議なテーマがやってきて、でもなんだか奥が深そうで面白そう。大人も子どもも、文字通り「なんじゃなんじゃ」となってしまいます。

ひとつのテーマを決めて運動会を実施するのは、一見「一律」であるように思えるのですが、宇治福祉園さんの先生方や子どもたちは、それぞれがそのテーマを素材にして創造的に楽しんでいっているように見えます。「運動会は日常保育の延長です」との言葉どおり、子どもたちは日常の中で「なんじゃ」を探求し、「ぴゅしす」と出会って遊びます。子どもたちが体験を積み重ね、混ぜ合わせて生み出したチーム名、例えば「ぽろほわごーんふふっ」「ひゅーぶくきらっぱ」「ぐりっぴにょらばんどぅん」は、とても魅力的で、子どもたちの身体に染み込んだ「ぴゅしす」の体験があふれ出てくるような名前です。(注➁)

「共通のテーマ」はあっても、内容が強制されるのではなく、子どもたちはその「面白そうなもの」を想像豊かに遊び、それぞれのセンスを混ぜ合わせながら、しだいに自分たちのものとして共有しているように思います。このような「共通化」のプロセスは、遊ぶなかで「みんなで遊ぶ楽しさ」が生まれてくるような発酵の過程であり、一律の型の押し付けからは生まれない包容力をもっています(注➂)

また、先生方はとても真剣にこのテーマについて、「なんじゃなんじゃ」と議論してきたと伺いました。共通のテーマを媒介に、それぞれのセンスを混ぜ合わせながら、しだいに自分たちのものにしていくプロセスは、子どもたちの遊びとも通底しているように思います。「共通のもの」を時間をかけて醸成することで、ひとりひとりが自分なりの仕方でそこに混ざっていくことのできる、包容力のある場が生まれているのではないかと思いました。

 

「共通のプログラムを、ひとりひとりの生き方で」

 運動会には、「共通のプログラム」があります。プログラムが決まっていれば、「全員」がひとつの目的やゴール、勝ち負けに向かって活動していくことになります。しかし、このような「共通のものcommon」の作り方についても、宇治福祉園の運動会は多様な子どもを包容する工夫に満ちていたように思います。

運動会のプログラムでは自分への挑戦や目標の達成、身体発達といったことに焦点が当たりがちです。もちろんそれも大切なのですが、運動会で得られる子どもたちひとりひとりのウェルビーイング(幸せのかたち)は必ずしもそのような達成や発達だけではないように思います。

かけっこの場面、多くの子どもたちが走り終わった最後に、先生に抱かれてゆっくりと進んできた男の子がいました。私はその子の表情からどんな気持ちなのかを読み取ることができませんでしたが、どこからともなく「がんばれー」の声が響きます。すると、3人の女の子が駆け寄ってきて、その男の子に何やら話しかけています。そして、2人は男の子の両脇を支えるように、1人は後ろに回って抱きかかえるようにして、前に進み始めました。先生はすっと手を放し、4人を見守ります。しばらくすると、はじめ走る気をなくしているように見えた男の子は、突然躍動するように走り出し、4人でゴールに向かっていきました。

この場面、自然と回りから拍手が沸き上がりました。周りで見ている人たちも、男の子の気持ちになって、男の子が「ゴールできてよかった」と感じるシーンで、私も思わず拍手していました。このような感動的な場面で、私たちはつい、「全員で同じゴールができたこと」に価値があると考えがちですが、はたして、この場面が感動的だったのは、「全員で同じゴールができたから」だったのでしょうか。

もちろん、「友達の力があったからこそ同じゴールを切ることができた」というのもひとつのあり得る物語なのですが、この男の子はもしかしたら走ってゴールすることとは別のウェルビーイングを生きていたのかもしれません。「友達が来てくれてうれしい」ことそれ自体や、「一緒に走ることが楽しい」というそれ自体の体験がこの男の子にとって大切だったのかもしれず、このシーンにそういったウェルビーイングの物語を見て取ることも可能です。

「同じゴールを切る」ことは「みんなのなかで」の幸せの一部ではあるけれども、すべてではありません。宇治福祉園の運動会の「プログラム」は、それをさまざまな仕方で生きることが前提にされていたように思います。親子競技も、冒険競技も、「共通のプログラム」ですが、そこには多様な体験の道すじや、日常の遊びとの連続性が包まれているように感じました。

 

「共通の時間を、ひとりひとりの仕方でつくる」

運動会は、「みんなと一緒」を体験できる共通の時間ですが、決して一律の時間ではありません。運動会という共通の思い出は、ひとりひとりが自分のやり方で遊び、生きる中でつくられたように思います。みんなで作ったおみこしには、子どもたちの日常の遊びが凝縮されていましたが、子どもたちがそれをかつぎ、あるいはそれに寄り添うように一緒に歩く時間は、まさに蓄積された「遊びの地層」の上で、「みんなの時間」が生成していく象徴でした。

ひとりひとりを大切にすることと、みんなで居ることの両立は、とても難しいことだと思います。今回、宇治福祉園の運動会を見学させていただき、それを実現するひとつのかたちを体験させてもらったような気がしました。

そのような運動会をつくるには、本当に大変な準備があったことと思います。当日までの天候に合わせて会場を整備し、子どもたちひとりひとりの晴れ舞台をつくるためのさまざまな用具を準備し、手をかけて、想いを込めて、つくってきた運動会だからこそ、このような感動的な時間があったのだと拝察します。運動会の場は、この二年間のテーマのとおり、自然への、いのちへの、子どもへの愛が詰まったものであることを実感しました。

 

【注釈】

  1.  多様な人々が、“共に”生きることのできる社会をつくることは、民主主義の最も重要な課題です。丁寧に、時間をかけて、commonを醸成する実践は、ジョン・デューイの哲学を想起させます。「社会は伝達によって、コミュニケーションによって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に、コミュニケーションの中に存在するといってよいだろう。共通(common)、共同体(community)、コミュニケーション(communication)という語の間には単なる言葉の上の結びつき以上のものがある。人々は、自分たちが共通にもっているもののおかげで、共同体の中で生活する。そしてコミュニケーションとは、人々がしだいに共通のものをもつことへと至る道なのである。」(ジョン・デューイ『民主主義と教育(上)』岩波書店p15、一部改訳)
  2.  今年は野染めの様子も見学させていただきましたが、宇治福祉園さんの保育には、私たちを包んでいるぴゅしすを実感することのできる時間が流れているように感じます。近年、自然と切り離せない子どもという考え方が英語圏でも注目され始め、childhoodnature(子どもの自然/自然の子ども)という言葉で研究されはじめています。
  3. 「共通化」はプロジェクト型保育をはじめとする、探究型の保育実践のキーワードになっています。ひとりひとりの興味や関心が共有され、共通のイメージや目的が生まれていくことで、協同的な探究が深まっていくからです。しかし、宇治福祉園さんの「共通化」は、プロジェクト型保育の「共通化」とは違った質感をもっています。プロジェクト型保育は、子どもたちの興味・関心に寄り添いながら、あるタイミングで探究を「共通化」する活動の提案や、目標設定の合意が生じ、進む方向がはっきりしてくるイメージ(「線」や「矢印」のイメージ)がありますが、宇治福祉園さんの「共通化」は、円環する時間にとどまり、発酵しながら、共通の場が醸成されてくるようなイメージをもっています。

 

【山本一成 (やまもと いっせい)プロフィール】

1983年、埼玉県生まれ。九州大学大学院人間環境学府を修了後、 京都造形芸術大学こども芸術大学にて芸術教育士として勤務し、 保育実践の経験を積む。退職後、京都大学大学院教育学研究科にて博士号を取得 (教育学)。 現在、滋賀大学教育学部准教授

杉本理事長が全国私立保育連盟保育・子育て総合研究機構の研究企画委員を務める関係で昨年度より「Life(生活、人生、生命)を深める保育実践理論の探究」の協力・フィールド・ワークを行っている。